稲垣正浩

わたしたちは,なんとドグマティックに生きていることだろう。いや,それどころか,ドグマティックでなくては生きてはいけない,そういう「生きもの」なのだ,ということを知るべきであろう。わたしには以前からそんな感覚がずっとあった。重大な決心ほど「エイヤッ!」という,根拠のないところで行うことが多かった。ようするに,ドグマ的に。 こういう「ドグマ的なもの」の出現の根拠はどこにあるのだろうか。どうして,「ドグマ」に依拠しなくてはならないのだろうか。このあたりのことを少し考えてみよう。 たとえば,こうだ。 立っている木をみて,木と呼ぶのは日本語で暮らしている人たちだけだ。英語圏で暮らしている人たちは,tree と呼ぶ。ドイツ語圏では,Baum という。つまり,言語によって,木の名称はみんな違う。日本語で木を木と呼ぶ根拠はどこにもない,ということだ。同じように,tree や Baum でなくてはいけない根拠もどこにもない。それらは単なる名付けの約束ごとであり,その約束ごとを共有する人びとが存在するかぎりにおいて成立しているにすぎない。 ここからはじまって,わたしたち人間は生きていくための約束ごととして,たくさんのドグマを生み出してきた。そして,そのドグマに支えられるようにして人間の「生」は成立している。